映画「ハドソン川の奇跡」レビュー

2019年1月27日アニメ/マンガ等,感想/レビュー,映画

この記事は2016年10月3日に執筆したものを再編集したものです。
 “USエアウェイズ1549便不時着水事故”。私の頭が逝っている為かこの事故名を見ても『ハドソン川の奇跡』という映画名を聞いても当時を思い起こすことは出来なかった。『ゼロ・グラビティ』という映画があるが、こいつの原題は『Gravity』で邦題と真逆の意味になっている。それで映画ファンの一部から不満が湧いたようだ。確かに主人公が地球の重力を噛み締めるシーンが作品のラストを飾り、感動が重力のように観客に押し寄せる仕掛けになっているのだが、邦題がこれでは監督だかプロデューサーだかのドヤ顔が無駄になってしまう。
 だが少し待ってほしい。
 日本語字幕をスクリーンに乗せる事だけがローカライズでは無い。『ゼロ・グラビティ』の件なら語感が良いとか“ゼロ”が付いて分かりやすいとか熟考の結果だと思う。今回も、多くの日本人が、少なくとも頭の中央からは退場してる同事件が題材の作品を原題のまま“Sully”(機長のあだ名。以下「サリー」)で配給しても飛行機事故の作品だとは思わないだろう。熟慮の上での決断を推察できる。
 それでは今回の邦題もミスリードなのだろうか。いずれにしても多くの人々をスクリーンの前に座らせて事故の真実と“映画の真実”を突き付ける。これは痛快に思える。

 映画の冒頭は機長・サリーの夢で始まる。ニューヨークのビル群に飛行機が突っ込むので「予習していた事故と違う!」と驚いてしまった。当然当時の事故をググるか思い出して来場するだろうとの監督の読みに見事に嵌められた形だ。で、夢から覚めるとホテルの一室。サービスシーン(?)を経て観客はここでサリーが既に過去に飛行機事故を経験していることを知る。
 副機長のジェフが「世間はあなたを忘れないでしょう」と言ったが私は忘れていたのでこれは申し訳ないなと思ってしまった。最後まで飛行機に残り取り残された乗客が居ないか念入りに確認するサリー。地上に降り立っても制服を脱ごうとしないサリー。病院にて全乗客乗員の生存を告げられ心からの安息を得るサリー。リアルサウンドの記事で書かれていたが、サリーの一挙手一投足を余韻と共に観客と共有することで映像と音声の隅々からサリーの機長である自覚と自負を感じ取ることができ、ひたすら英雄・サリーを讃える作品に仕上がっていると思った。サリーの偉業を再確認する良い機会だった。鳥肌が始終立ってしまっていた。

 邦題の是非についてもう一度考えてみよう。自分は原題を予め知っていたので、当初本作が事件のお話ではなく機長の心を描いた作品だと思っていた。確かにサリーが自らの判断に悩んだり事故がトラウマのように植えつけられているシーンは多く確認できたが、サリーや監督や伝えたかった内容は事故自体の教訓だと思う。サリーがNTSBの調査にて自らが正しいとの主張を繰り返したのは、盲信でも見栄でも自己弁護の為でもなく、機長として預かる155人とまだ見ぬ乗員乗員の命の為だった。同事故での彼の決断が誤りだったと判断されたら機長を辞めるとの発言から覚悟が伺える。機長や乗員の信念に触れたことは私にとって今後彼らを信じるきっかけとなった。
 ところで乗客が信頼するに値する乗務員と成る為には、作中で暗に訴えていたと思うのだが、事故を想定し訓練することが重要であると感じる。NTSBが依頼した事故のシミュレーションではバードストライクによるエンジン停止後に空港に安全に着陸することが出来ている。理由も明確に示されているが、シミュレーションに当たったパイロットが17回も練習をしていた為だ。実際の事故でも事故を想定して17回もの訓練を行えば空港に安全に着陸し乗客も機体も傷を負わなかったのかもしれない。「私はそのような訓練を受けていない」――作品前半のサリーの発言が胸に刺さる。
 映画終盤に語られていたが“着水”成功の“人的要因”は機長のみならず乗客乗員――救助にあたった人全てに当てはまると考えると邦題は間違いではないと思える。もちろん何事も起こらないのが一番だ。しかし万が一の事態が発生した際に他人に尽くし犠牲者を一人でも少なくする方法を考える。私たち一般人にも日頃からの想定と覚悟が必要だと思った。これを単に防災や事故対策の範疇に留めてしまわなければ良いのだが……。